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言いたいことはすぐ言う

口が過ぎれば足を取られます。基本的にはWord2ページ程度

少年法を知ってた私から校長先生へ

私は余り“学校の思い出”が残っていないタイプだ。
つい4・5年前の高校時代ですら思い出せないような学校嫌いな生徒だった。
高校のクラスメートとかは「嘘だぁ~」と言うかもしれないが。

何だかんだで学校の先生にもピンキリあるし、
斜に構えた、上から目線の小生意気な小学生。そりゃあクラスメートに嫌われるわ。
と、今になって思えるが、多分ピークは小学校5年生だったように思える。

『好きな人と昼食を食べて良いですよ~』
遠足で良く聞かれる台詞が“毎日の給食時間”だった。

30人に満たないクラスで何人かが班を作る。
その中でぽつんと班に入れずに、教室の中央よりちょっと後ろの廊下側。
机を移動することのない生徒が私だ。

担任の先生は教卓でご飯を食べている。声をかけもしない。
せめて後押ししてくれよ、嫌々でも良いから、端っこでいいから入れさせてよ。
入れてと頼めないし、入ろうとしたら嫌がられる。
普通のいじめとはちょっと違ったような気がした。
存在させてもらえない”のだ。
あの時の感情が思い出せないのはある意味幸せかもしれない。

それでも週に一回だけ、輪に入れてもらえる日があった。
特別支援学級のクラスメート(知的障害だった)が週一回、クラスで給食を食べるときだった。
当然他の子は物凄く嫌な顔をする。でも入れて貰えた。

入れてくれてありがとうだ。
それと同時に「(障害児より嫌われてるんだ。)」と差別的に彼女を捉えていたのも事実だ。

ほぼ同時に“少年法”の存在を知った。11歳だから罪に問われない。
それぐらいの知識だけで私は“最後の手段”として少年法を一つの支えにしていた。

その時の感情が思い出せない理由は多分もう一つある。
直ぐに私が登校拒否をしだしたからだ。
恵まれたことに、父も母も理由は余り問わず
『行きたくないなら行かなくていいよ。(じゃあ家の事は多少してね)』というタイプで、
もっぱら私は痴呆の入り始めた祖母と過ごして、徘徊に付き合っていたりもした。

団地に住んでいたので、“ずる休み”は直ぐに学校に知れ渡って2週間後には学校の先生が家庭訪問に来た。

 

担任は来なかった。

 

結局、あの後“友達給食”は無くなったらしく、私は何故か“校長室登校”をしていた。
生徒は私一人だけ。今思うと物凄く不思議な時間だった。今でも夢かなと思う。
校長先生は凄く優しかったのを覚えている。蝶のさなぎを取って来てふ化する様子を一緒に見たり、出張のときは理科室で標本を見てて良いよと理科の先生にもお世話になった。

ずっと少年法を盾に、カッターを矛に、弱虫な私は校長室登校をしていた。

校長先生が言った。
『君は一切悪くないよ。君に力が無い所為でもない。
君は誰も傷つけていない。それはずっと、ずっと誇って良いんだよ。』

少年法とカッターを後ろ手に隠しながら泣きそうな自分を抑えながらぶっきらぼうに頷いた。

その後色々あって戻ったものの、給食時間は担任とは別に、もう一人教諭が着くし、
逆にそれはそれで嫌われる原因になり、ずる休み再発になったのだけど・・・。
学校側も対応の仕方が不慣れでしょうがない感じはした。

ともあれ、再び登校拒否し始めた直ぐ後だったように思える。

 

校長先生が亡くなった。

学校でのお別れの会があったが、不登校中の私は出席しなかった。
(先生がガードするという変な代案を出されたが絶対にそうじゃないだろと思う。)

学校のお別れの会には出席せず、直接先生の葬儀に行った。
今となっては顔も名前も思い出せない校長先生だが、概念だけは残ってる。

校長先生、ごめんなさい。今でも学校は嫌いです。
あの時もあの後も、結局ビビッて刃物の一つも持ち出せず、自殺も、自傷行為すら出来ませんでした。

でもあの時の校長先生は大好きです。
嫌いな先生もいましたが、そうじゃない先生もいました。
ちゃんと高校まで卒業して、就職して、成人しました。

あの時、もし私が少年法で自分を守ってたら、どうだっただろう。
ふと考えて思う。

ネガティブで、少年法を盾と矛にしてたあの小生意気な小学生が、恨んで加害者になって誰かを悲しませる。
それをすることなく生きていられる。それだけは誇って良いんですよね。

校長先生、あの時の私に会って下さってありがとうございます。


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